LOGINあとから聞いた話だが、俺が学校を休んだ日、昼休みのざわめきが薄くなるタイミングで、小夜は教室の真ん中で甚太に声をかけたという。
「甚太くん、少し相談があるの。……ここじゃなくて、図書室で」
声は落ち着いていて、でも背中に風を孕んだみたいに軽かったらしい。クラスの視線が集まる。男子の何人かはわざと聞こえる声で笑って、女子の何人かはノートを閉じる手を止めた。
「おう、わかった。すぐ行く」
甚太は、あくまで普段通りに返したという。
けれど、「みんなの手前」彼は了承した。みんなの前で了承する、ということがどういう意味を持つのか、あいつは薄々察していたのだろう。
後に本人がぼそりと言った。「あの時点で、俺はどこに風が吹くかだいたい分かった。……でも、風上に立つことと、誰かの風除けになることは、たまに同じ意味なんだ」と。
俺はその頃、部屋のベッドと天井の境界をぼんやり眺めながら、一日に何度も浅い眠りに落ちては浅い現実に戻ってくる、を繰り返していた。スマホの震えだけが、乾いたところに落ちる雨みたいに、現実を連れてくる。
蓮花からのメッセージは、相変わらず具体的で、やさしい。
蓮花《鉄、生きてる? プリント、ドアノブにかけといたから。ごはん食べた? 無理ならゼリーでも摂ってね》
甚太は短く、命令形が多い。
甚太《とりあえず寝てろ。ちゃんと飯食えよ。既読したら寝る!》
小夜からは、夜になると必ず一通は届いた。
小夜《今日の月、雲に隠れたり、出てきたりしてるよ》
俺は『見たい』と返し、『見よう』と続ける。
返事より先に眠気が来る日は、スマホを胸に置いたまま眠ってしまう。目覚めると、朝の白い光のなか、画面に「おやすみ」が煌めいている。
数日そうして過ぎ、体の芯の重りが少しだけ軽くなった頃、俺は登校した。
玄関の靴箱の鉄の匂い。廊下の風の塩。教室に入ると、いつもより視線の針が数本だけ増えた気がした。俺が戻ってきたこと、小夜のとなりに俺が座ること、その二つが同じ文脈で見られている視線。
「鉄」
最初に声をかけてきたのは蓮花だった。眉の角度が普段の元気印より二度くらい下がっている。
「顔色、よくないよ。帰れって言われたらすぐ帰るんだよ。いい?」
「大丈夫。今日は、来たかったんだ」
「“大丈夫”に“ほんと?”って重ねる役、私もう飽きてきたから、ほんとに大丈夫なやつだけ言ってね」
「うん。ほんとに大丈夫だから」
そう言いながら、俺は窓際の席へ目をやった。
小夜は、そこに「いつも通り」の形でいた。ノートを開き、細い字で日付を書き、ペン先を一度だけ空に払ってから、一行目に触れる。頬の白さは変わらない。髪の艶も、指の動きの丁寧さも、話す時の微笑も。
ただ、ほんのわずかだけ違った。午前の終わり、ふいに姿を消すことがある。昼休みの半ば、屋上へ向かう階段の踊り場で足を止め、そこから姿が見えなくなる。放課後、駅と逆方向へ歩く背中を、誰かが見たと言う。
そして――甚太が、他人行儀になった。
目が合えば「よう」と手を上げるが、足は止めない。冗談をふっても、笑うけれど拾わない。メッセージも、語尾が固い。
甚太《明日のプリント、渡す。体調どう》
短い言葉の断面に、意図して切り落とした柔らかさが見える。俺は画面を閉じて、深呼吸をする。
距離は、優しさの別名になることがある。頭ではそう分かっていても、胸は納得しない。
そんな状態のまま、二週間、三週間。
不思議なくらい、俺の体調はみるみる回復した。朝の起き上がりが軽くなり、階段で息が切れず、昼過ぎの欠伸が浅くなる。首筋の痕はもう見当たらない。体が自分の体に戻ってくる感覚。
嬉しい。正直に、嬉しかった。
同時に、嬉しさに噛み合わせる奥歯の裏側で、不安が小さく鳴った。
俺の回復曲線と、甚太の他人行儀と、小夜の「時折の不在」。三つの線が、どこかで交わっている気配。
ある昼休み、廊下の向こうから、噂がやってきた。
噂の足音は軽く、言葉は薄く、でも刺さる場所を知っている。
「ねえ、聞いた? 甚太くんと、小夜さん」
「付き合ってるんだって。放課後、図書室でずっと二人でさ」
「職員室の前でも見た。あれはもう、そういう」
「鉄くんが最近元気なのも、ね」
その「ね」が、最初から俺に向けられていたみたいで、笑えなかった。
噂は噂だ。俺は噂で動かない。俺は信じる。甚太を、小夜を……信じる、と決めることと、信じ切れることは、別だ。
放課後、蓮花を呼び止めた。
階段と階段の間の踊り場。外の光が斜めに差し込み、白い壁に鉄柵の影が格子模様を描く。
「蓮花。……甚太と小夜のこと、なにか知ってるか?」
蓮花は、少しだけ目を伏せた。
返事は早くなかった。
彼女はいつだって、言葉を急がない。言葉に責任を持つからだ。だからこそ、俺は余計に緊張する。
「“知ってる”ことと、“話せる”ことって一致しないの、知ってるよね?」
「今はどっち?」
「今は……“話せない”。ごめん」
「それは“知らない”のと、どう違うだよ」
「違うよ。私は見てる。二人とも。見てるから言えない」
「俺は、小夜の恋人だ」
「知ってる。だからこそ、言えない」
膝の裏が熱くなった。
怒りではない。悔しさでもない。名前が付けられない体温。踊り場の空気が少し塩辛くなる。
蓮花は動かない。逃げない。俺の目をまっすぐ受け止める。
「鉄、私を嫌ってもいい。でも、お願いがひとつある。――今は、信じてちょうだい」
「“今は”って言うな」
「言うよ。“今は”未来はまだ誰のものでもない。だから、今は、信じる側に立って。お願い」
俺は喉の奥で言葉をつぶして、うなずいた。うなずくしかなかった。
蓮花はほっと息を吐き、「ありがとう」と小さく言った。
帰り道、夕焼けがやけに長かった。
郵便受けに手を入れる動作まで、どこかぎこちない。部屋に入ってバッグを投げ、床に座り込んだ。
スマホの通知は静かだ。静けさは、優しさの反対側にいることがある。
俺は立ち上がって、顔を洗い、冷蔵庫から水を出し、グラスに注ぐ。水面が揺れる。グラスを持つ手がひとつ震える。台所の時計の音が急に大きくなる。
その時、スマホが震えた。画面に、蓮花の名前。短い一文。
蓮花《甚太が倒れた。今、救急病院に運ばれてる》
グラスを置く前に、手が滑りかけた。
水が少しこぼれる。床に小さな湖ができる。
俺《どこ?》
親指が勝手に打っていた。すぐに返信。
蓮花《市民病院。私は今向かってる。――鉄、小夜は、連れてこないで》
最後の一行だけ、胸の奥で何かが跳ねて、深いところへ沈む。
靴ひもを結ぶ指が急いて、ほどけ、結び直す。ドアを開ける。夜風が顔を叩く。
走り出した足のリズムに合わせて、頭の中で言葉が崩れていく。
“倒れた”
“救急”
“連れてこないで”
――どうして。なぜ。何があった。
聞きたい言葉は幾つもあって、どれにも答えはない。
夜の街は、いつもより信号が多く、いつもより横断歩道が長い。
剥がれかけた白線が靴裏に貼り付いて、離れない。
呼吸が浅く、肺の容積が足りない。
心臓は、回復したはずのリズムをとっくに越えて、乱打を始めていた。
病院の正面玄関は明るすぎて、目が痛かった。
蛍光灯の白の下で、人の顔の色はみんな似てしまう。受付で名前を告げると、「こちらです」と案内され、エレベーターの前で待たされた。
その間にも、スマホは震える。小夜からは何も来ない。蓮花からは短い連絡が入る。「今、処置が終わったみたい」。
エレベーターの鏡に映る自分の顔は、数週間前のそれと別物だった。
扉が開くと冷たい廊下を足早に歩き出す。歩きながら、何かを決める。
信じる、ということを。ただし、“今は”ではなく、“これからも”として。
――その決意が、次の瞬間、どれほど揺さぶられるかも知らずに。
病室のドアに手をかけた瞬間、指先が自分のものじゃないみたいに冷たくなった。取っ手の金属は体温を吸い取り、静電気みたいな微かな痺れが手の甲に散っていく。消毒液の匂いと、乾いた空調の風と、どこか遠くで鳴る機械の電子音。現実を構成するそれらが、ドア一枚向こう側では別の密度で渦を巻いている気がした。
押し開け中に入ると、真っ白の壁と白いカーテンと白い天井。そこに一つ、色が削ぎ落とされたみたいな人間の形が横たわっていた。髪はいつの間にか短く刈られ、頬骨は鋭く浮き出て、肩はシーツから浮き上がるほど尖っている。腕は細い、というより薄い。皮膚の下の骨と血管が、青みを帯びた線で「ここだ」と主張していた。
――甚太が、いた。
ベッド脇のモニターが、気まぐれに跳ねる線を描くたび、小さな電子音が鳴る。吸引力の弱そうな酸素の管が鼻の上を通り、テープで頬に貼られている。そのテープの白の下、皮膚は紙のように薄く見えた。
俺は一歩、二歩、三歩と甚太に近づいていく。足音がやけに響いた。靴底と床の間に挟まっているのはゴムなのに、金属同士が触れ合うみたいな硬い音がした。枕元まで近づいたところで、呼吸が浅くなる。肺の容量が急に縮む。
……どうして気づけなかった。
俺の頭のどこかで、別の俺が呟く。
毎日同じ教室で顔を合わせていた。朝の「よう」、廊下ですれ違う手の上げ方、昼休みのくだらない言葉のキャッチボール。そのどれもから、こいつの体が、こいつの生気が、地面に溶けていってることを、どうして嗅ぎ取れなかった。
思考は最初から泥沼に落ちていた。泥を掻けば掻くほど、足首が重くなるあの感じで、答えのない反芻が内側で繰り返される。
ベッドの右側の丸めた椅子に蓮花が座っていた。背筋は伸びているのに、肩だけが小さく落ちている。握りしめた手の関節が白くなって、指先が震えている。顔は伏せられ、髪が頬にかかっていた。髪は濡れていないのに湿って見えた。
俺が声を出す前に、ベッドの上から、掠れた音がした。
「……人の顔見て、なんて顔してやがる」
声は甚太の声なのに、そこに宿っているはずの乾いた陽気さが薄い。掠れて、擦れて、どこか遠くからスピーカー越しに届けられているみたいな弱さ。冗談の粒が沈んで、底にへばりついている。
「お前……どうして、そんな」
言いながら、自分が何を言っているのかわからなくなった。そんな、って、どんなだ。目の前の事実はこんなだ。言葉が追いつかない。追いつかないくせに、口だけが前に出る。
蓮花が、不意に顔を上げた。目の縁が赤い。声は低く、押し殺したところから、無理やり外へ出てきた。
「鉄には……わからないの?」
わからない、って単語が、刃の背で叩かれたみたいに痛かった。
俺は息を吸って、それでも正直に吐き出す。
「わからねぇよ。どうしてこんなことになったんだよ」
蓮花は唇の端を噛んだ。噛んだところだけ、色が濃くなる。
そして、言いかけた。「これは、小夜が――」
「……蓮花、よせ」
甚太が制した。弱い声だ。弱いが、俺と蓮花の間に一本の線を引くには十分な力があった。
「でも、これじゃ、これじゃ……!」
蓮花は俯いて、泣き声を胃のあたりで止めた。喉の奥でだけ震える音。肩だけが震え、涙は落ちない。落ちないように全身で堪えている。
小夜――その名前が空気に乗って、俺の耳に届いた。鼓膜がわずかに痛む。
胸の奥の何かが、音を立てて崩れた。頭の中で組み上げていた仮説の骨組みが、軋みながら一斉に崩れる。
「小夜が……どうしたっていうんだ!」
声が荒くなるのを止められなかった。
病室の白い壁が俺の声を跳ね返して、もう一人の俺の怒気になって返ってくる。
「何か知ってるなら教えろよ。俺は彼氏だぞ。……彼氏だぞ」
最後の繰り返しは、言葉というより、哀願だった。
甚太は目を閉じ、薄いまぶたの下で眼球が左右に動いた。探している。どこかの言葉を探している。でも、見つからない。
時間がひどく長い。モニターのピッ、ピッという音が、やけに均等だ。こいつの心臓はちゃんとリズムを刻んでいるのに、ここにいる三人の時間は均等じゃない。俺だけが早送りされているようで、蓮花は一時停止したかのように動かず、甚太はスローモーションみたいにゆっくりと時間が流れている。俺のリモコンは壊れているのだ。
「……鉄」
甚太が、乾いた唇を舐めるみたいに舌を動かして、言った。
「悪い。今は……言えねぇ」
「言えない?」
「言えねぇ」
「言えないって、なんだよ。言えよ!」
「言えねぇんだよ……」
同じ言葉が繰り返されるたび、壁の白が濃くなる。
俺はベッドの柵に指をかけた。冷たい。力が入って、関節が痛む。指先の白さを見下ろしながら、自分が誰なのか一瞬だけわからなくなる。
俺は鉄弥だ。小夜の彼氏で、甚太の幼馴染で、蓮花の――なんだ。クラスメイトで、友達で、笑い合う相手で、今、目の前で怒鳴っている人間で。
「俺はな」
甚太が、枕に沈むように声を出した。
「お前に、元気でいてほしいんだよ」
「だから俺に黙って倒れたのか? 元気でいてほしいなら、相談しろよ。頼れよ」
「頼ったさ」
「誰に」
甚太は目を開けた。瞬きがひとつ、深い。
その目は、俺を見ていない。俺の後ろにある、白い天井のどこかに焦点が合っている。
「ずるい言い方になるけどな……“誰か”にだ」
「はぐらかすな!」
「はぐらかしてねぇ」
「なら、言え!」
「……言ったら、お前が壊れるから」
その一言で、胸の内側にばらまかれていた不安の粒が、一か所に集まった。くるくると回りながら、中心に渦を作る。渦の底に、名前が見える。
蓮花がそっと立ち上がった。椅子の脚が床を擦る音が、やけに軽い。
「ごめん、鉄。私、ほんとはさっきからずっと、ここで叫びたかった」
「叫べばいいだろ」
「叫んだら、潰れちゃうから」
「何がだよ……」
「全部」
蓮花は唇を噛んで、もう一度飲み込んだ。「全部」を。
その仕草だけで、わかった。
わかりたくなかったことが、喉元に引っかかる魚の骨みたいに、俺の内側に刺さる。
俺が元気になっていった時期と、甚太がやつれていった時期は重なる。
小夜が時折姿を消すタイミングと、甚太が「他人行儀」になったタイミングも重なる。
あの日、俺が首筋の赤い痕を蚊だと思い込み、翌朝には“痕がない”ことを喜んだとき。
――誰かが、俺の代わりに、何かを引き受けていたのか。
そんな都合のいい、いや、“都合の悪い”推測を、俺は追い払うために手を振った。現実は波じゃない。手で払っても、そこに残る。
「甚太」
俺は呼んだ。
甚太は目を閉じ、薄く笑った。笑いは形だけで、そこにいつもの熱はない。夏休み前のグラウンドで、ボールを追いかけるときの熱。点を取ったあとに俺の首を絞めるふりをして笑うときの熱。
「鉄。……俺は、お前のことを“友達だから”守りたかったんじゃない。お前が“友達だから”簡単に背中を預けられるって、思ってた。預けられるもんは、預ける。それだけの話だ」
「預けるって、なにをだよ」
「いろいろだよ……元気とか、笑いとか、苦しみとか、そういう“いろいろ”」
「ふざけるな!!」
「ふざけてねぇ」
俺の声が震える。怒りで、か、悲しみで、か、自分でも判別がつかなかった。
俺は柵から手を離して、ベッドサイドの小さな丸椅子に腰を落とした。座った瞬間、床が波打つ。船酔いみたいな目眩。
蓮花が、そっと俺の肩に手を置いた。冷たい手。手の冷たさと、病室の空気の乾きが、俺の皮膚の上で混じる。
「鉄。……お願い聞いて。ちゃんと、聞いて」
「……小夜は」
俺は口を開いた。声が自分のもので、別の誰かのものでもあった。
「俺の彼女だ」
甚太が小さく笑う。「知ってる」
「俺は、彼女を信じる。……でも、俺は今、甚太、お前を見てる。これを“偶然”で片付けられるほど、俺は鈍感じゃない。鈍感だったけど、鈍感でいたけど、もう無理だ。だから、教えてくれ。――何があった」
蓮花が俺の肩に置いた手に力を込めた。止めるためじゃない。支えるためだ。
甚太は、天井を見て、呼吸を整えた。
ピッ、ピッという音は律儀で、病室の時計は正確だ。俺たちの時間だけが、歪んでいる。
「……鉄。お前、小夜と、別れろ」
喉がきしむ音が、自分で聞こえた。
「は……?」
「別れろ、って言ってんだよ」
声は弱いのに、言葉ははっきりしていた。
続けて、蓮花もそれに続く。
「お願い。別れて」
俺の胸に火が落ちる。反射的に口が動いた。
「ふざけんな。……なんでだよ。なんでお前らがそんなこと言うんだよ。俺に“信じろ”って言ったの、お前らだろ。小夜を、俺たちを」
「信じることと、見ないふりは違うんだよ」
蓮花の声は低い。
「鉄、聞いて。――噂、全部じゃないにしても、小夜は、付き合った相手のそばにいるほど、相手が弱っていく。……鉄、あんただって倒れたじゃない」
「たまたまだ。寝不足だったんだ……」
「じゃあ、どうして今は元気になったの?」
蓮花の指が、俺の胸の真ん中を指すみたいに空中で止まる。
答えはわかっていた。わかっているからこそ、首を横に振る。
「因果を短絡で結ぶなよ。……小夜のこと、そんなふうに言うな」
「言いたくて言ってるんじゃないよ」
蓮花の目が鋭くなる。
「鉄が戻ってきた頃から――小夜は、時々いなくなってた。昼休み、放課後。……そのタイミングで、甚太の顔色がどんどん悪くなった」
俺は甚太を見た。
甚太は目を逸らさなかった。
「……俺が、勝手にやった」
乾いた声で言う。
「小夜に、頼まれたわけじゃない。俺が、頼んだ。――鉄の代わりに、って」
「やめろ」
喉の底から洩れた声は、自分のものとは思えないくらい低かった。
「そんな、ヒーローぶるみたいな……話を……」
「ぶってねぇよ」
甚太は苦笑した。唇だけが笑って、顔は痙攣みたいに歪む。
「俺のほうが向いてたんだよ、こういうの。体力もあるし、何より俺は“幼馴染みの親友”だ。だから守りたかったんだ」
「守る? 何から」
「鉄、お前の酷い悪夢からさ」
言葉が、肺の中の空気を奪った。
「でも、噂は、噂だろ。証拠なんて、どこにもない。小夜は――」
「小夜は、優しいよ」
蓮花が遮った。声が震えている。
「優しいから、余計に……自分を責めて、言わなかったんだ。鉄のために距離を取ろうとして、でも鉄は追いつく。だから、甚太が間に入った。……鉄のために、だよ」
「俺が頼んだ」
甚太が繰り返す。
「鉄、お前が元気になっていくの、嬉しかった。ほんとに、心から。……だから、誤魔化した」
「違う」
俺は首を振る。何度も、何度も。
「違う違う違う。……小夜はそんな、ひどいこと、しない。俺が好きだって言って、あいつも“うん”って言ってくれて、俺は、俺は――」
言葉は自分を守る盾になるはずだった。
でも、口から出た途端、軽くて頼りなくて、握った端から砂になって落ちた。
蓮花が一歩近づき、俺を見上げる。
その目は、俺がいちばん見たくなかったものを含んでいた。正しさと痛み。
「鉄。――別れて」
「嫌だ」
「お願い……」
「嫌だって言ってるだろ!」
声が跳ねた。病室の天井にも、壁にもぶつかり、戻ってくる。
機械の音が一瞬、遠のいた気がした。
甚太が薄く目を細め、蓮花は拳を握った。
「なんで、お前らだって一緒にいただろ。ずっと……ずっと、四人で仲良くしてたじゃねーか!――なんで、見捨てるみたいな真似をするんだよ!」
「見捨ててない!」
蓮花は即座に返した。
「私たち、ずっと彼女のそばにいたよ。誰も近づけないなら、私たちが隣に座った。――でも、これ以上は、鉄の命が……だから、言ってるの。“別れて”って」
「なんだよ……それ……」
「お願い……」
胸の奥で何かがひしゃげる。
「……俺は、俺の目で見た小夜を信じる。――お前らの言うことが、真実なのかもしれないって、どこかでわかってる。けど、それでも、俺は、俺の、目で、見た小夜を」
言いながら、足元のタイルがぐらりと揺れる。 苦しさに喉を掴まれて、息がうまく吸えない。
俺は、逃げたかった。正しさから。痛みから。
だから、最悪の言葉が、口から滑り出た。
「だから……お前には、関係ないだろ」
時間が止まった。
機械の音も、空調の風も、一瞬だけ止まったように感じた。自分の言葉が、自分の耳に刺さる。刺さって、抜けない。
長い、長い沈黙。
やがて、蓮花が唇を開いた。声は、ほとんど空気に触れないほどかすれていた。
「……関係なく、ない」
その一言で、胸の奥の砂が一気に崩れる。
蓮花は顔を上げ、その目は真っ直ぐだった。
病室の白を焼くみたいに、はっきりと。
「関係なくないよ!」
叫びは、かすれ切っていた。けれど、誰よりも強かった。
蓮花は拳を胸の前で握りしめ、小さく震えながら続けた。
「だって、私は――鉄弥のことが、好きだから」
言葉は、病室の白い壁に黒い文字で書かれたみたいに、はっきり残った。
俺は立っているのか座っているのかもわからなくなって、足元を探した。
「小さい頃からずっと、三人でバカやって、笑って、怒って。……鉄はいつも、前を向いてるのに、どこか危うくて、だから目を離せなかった。――告白なんて、しないつもりだった。しないで、ずっと隣にいて、手を引っ張って、背中押して、それでよかった。……でも、今は、言う。だって、関係なくないから!」
言葉が、一つ一つ、胸の底の固いところを叩いた。
俺は息を吸ういたいのに、吸った息が肺に届く前に、喉で止まる。
「蓮花……」
名前しか出てこなかった。
「だから、お願い。――別れて。鉄を、守りたい……」
あとから聞いた話だが、俺が学校を休んだ日、昼休みのざわめきが薄くなるタイミングで、小夜は教室の真ん中で甚太に声をかけたという。「甚太くん、少し相談があるの。……ここじゃなくて、図書室で」 声は落ち着いていて、でも背中に風を孕んだみたいに軽かったらしい。クラスの視線が集まる。男子の何人かはわざと聞こえる声で笑って、女子の何人かはノートを閉じる手を止めた。「おう、わかった。すぐ行く」 甚太は、あくまで普段通りに返したという。 けれど、「みんなの手前」彼は了承した。みんなの前で了承する、ということがどういう意味を持つのか、あいつは薄々察していたのだろう。 後に本人がぼそりと言った。「あの時点で、俺はどこに風が吹くかだいたい分かった。……でも、風上に立つことと、誰かの風除けになることは、たまに同じ意味なんだ」と。 俺はその頃、部屋のベッドと天井の境界をぼんやり眺めながら、一日に何度も浅い眠りに落ちては浅い現実に戻ってくる、を繰り返していた。スマホの震えだけが、乾いたところに落ちる雨みたいに、現実を連れてくる。 蓮花からのメッセージは、相変わらず具体的で、やさしい。蓮花《鉄、生きてる? プリント、ドアノブにかけといたから。ごはん食べた? 無理ならゼリーでも摂ってね》 甚太は短く、命令形が多い。甚太《とりあえず寝てろ。ちゃんと飯食えよ。既読したら寝る!》 小夜からは、夜になると必ず一通は届いた。小夜《今日の月、雲に隠れたり、出てきたりしてるよ》 俺は『見たい』と返し、『見よう』と続ける。 返事より先に眠気が来る日は、スマホを胸に置いたまま眠ってしまう。目覚めると、朝の白い光のなか、画面に「おやすみ」が煌めいている。 数日そうして過ぎ、体の芯の重りが少しだけ軽くなった頃、俺は登校した。 玄関の靴箱の鉄の匂い。廊下の風の塩。教室に入ると、いつもより視線の針が数本だけ増えた気がした。俺が戻ってきたこと、小夜のとなりに俺が座ること、その二つが同じ文脈で見られている視線。「鉄」 最初に声をかけてきたのは蓮花だった。眉の角度が普段の元気印より二度くらい下がっている。「顔色、よくないよ。帰れって言われたらすぐ帰るんだよ。いい?」「大丈夫。今日は、来たかったんだ」「“大丈夫”に“ほんと?”って重ねる役、私もう飽きてきたから、ほんとに大丈夫なやつだ
付き合いはじめてから、小夜は校門の少し手前のほうで待ってくれていた。 朝の光はまだ白く、海風は少し冷たい。けれど俺の胸の中だけは、季節がふたつ先を走っているみたいにあたたかかった。 「おはよう、鉄」 「おはよう、小夜」 名前を呼ばれるたび、耳の裏がくすぐったい。小夜は手を差し出して、俺が握ると、その手はやっぱり少し冷たかった。冷たさはすぐに俺の手の中で馴染み、ふっと息を吐くように体温をわけ合う。 「今日ね、窓際の席、光が柔らかいんだぁ」 「じゃあ一限目は眠気との戦いだな」 「私が起こしてあげる」 「頼んだ」 たぶん、そのやり取りを何度繰り返しても、嬉しくてしょうがないんだと思う。校舎に入ると、廊下の空気が塩のにおいを薄め、かわりにチョークの粉っぽさが鼻先にくっつく。登校してくる生徒の視線がふっとこちらへ揺れ、すぐに戻る。近すぎず遠すぎず、俺たちの輪郭をなぞって通り過ぎていく。 席につき、ホームルーム。連絡事項はいつも通り。俺がうっかりため息を漏らすと、小夜が横からメモ用紙を滑らせてきた。 『今日の月、十日目。帰りに見えるよ』 小さな字。きれいなクロッキーのような月のスケッチまで付いている。俺は親指を立て、メモの端に『見よう』と書き足した。紙一枚のやり取りが、胸の中の何かを静かに整える。甘いというより、落ち着くようなそんな感じ。 昼休みの屋上は風が強く、空は高い。 レジャーシート代わりに敷いたタオルの上に並ぶ弁当。俺は購買のパンを二つ。小夜は小さな二段弁当――上段は白いおにぎりが二つと漬物、下段は柑橘の切れ端がきれいに並ぶ。飲み物はやっぱり水だ。 「それ、足りるのか?」 「うん。このくらいがちょうどいいんだ」 「ちょうどいい」を見つけるのが、彼女はうまい。 俺が袋からメロンパンを出すと、小夜が少し身を乗り出した。 「それ、好きなの?」 「うん。子どもの頃からずっと好きだった」 「そうなんだ。……匂い、かわいいね」 「かわいい匂いってなんだよ」 「鉄に合うよ」 直球で言われるとなんだか照れる。パンが急に“特別なパン”になって、噛むたびに笑いそうになる。俺が水を飲むと、小夜がペットボトルの口元をのぞいてくる。 「炭酸じゃないの?」 「今日はやめた。……小夜に合わせた」
「なー今度の連休に四人でどっか遊びに行こうぜ!」 甚太の声は、昼休みの喧噪に負けない。教室の窓が半分だけ開いていて、海からの風が白いカーテンをふわりと押し上げた。 俺は机に肘をつき、すぐさま頷く。「おー! いいな、行こうぜ!」 こういうときの返事は早いほうが勝ちだ。迷っているあいだにチャンスの波は岸に砕ける。俺の信条である。「アンタらねぇ、来週には期末テストがあるのに、遊んでられないでしょ!」 蓮花がすかさず縦ロール(脳内演出)みたいな勢いで突っ込みを入れる。実際の髪はポニテだが、言葉の圧で三割増しに見える。「テストなんて一夜漬けすりゃなんとかなるだろ。なー鉄!」「おうよ! 人間追い込まれてからが勝負だからな!」 俺と甚太は肩を組み、拳を合わせる。ぱしん、と乾いた音がして、カーテンの白が一瞬だけ眩しく跳ねた。「ほんとしょうがない奴らね。小夜からも何か言ってやってよ」 蓮花に水を向けられた小夜は、ノートの角に指を添えたまま、少しだけ目を細める。「うーん、私も最近テスト勉強ばっかで疲れてたからな~。たまにはリフレッシュしたいな!」「さすが小夜! いいこと言う! やっぱりリフレッシュは必要だよな!」「アンタは勉強してないでしょ!」 蓮花の鉄壁ディフェンスが飛んでくる。だが、ここは攻め切る。「まま、あんまり固いこと言わずに。あとは、蓮花お嬢様だけだぜ!」「お嬢様、お願い!」 小夜が両手を胸の前で合わせ、少し首を傾げる。潤んだ瞳――というより、光の反射でそう見えただけかもしれないが、その角度は反則だ。「お嬢たま、お願い!」 俺も真似る。甚太は横で合掌して「南無」とか言っている。カオス。「ああ! もう、わかった、わかった! 私も行くわよ!」 甚太と小夜の圧に折れる形で蓮花は両手を上げ、俺は歓喜のガッツポーズ。直後、黙って脇腹に小さな拳骨をもらった。痛い。黙っていないのに黙って殴られた。理不尽だが、勝訴だ。「でも、どこか行くっていっても、どこにする?」「そうだなー。海なんてどうだ?」「海っていうと、あそこか?」「そっ! お前のお気に入りのところ!」 甚太が親指で海の方向を示す。俺の脳裏には、いつもの浜辺の光景が即座に浮かんだ。風で砂紋がうっすら変わる、あの緩い湾曲。防波堤の向こうで波が砕けて白い霧を上げる。満月の夜、海面に道
そんなこんなで、彼女が転校して来てから一か月が過ぎた。 最初の一週間こそ祭りみたいな人だかりだったのに、二週、三週と経つにつれて、あの渦は嘘みたいに萎んでいった。昼休み、窓際の席に人垣ができていたのは遠い昔。今では、授業の合間も放課後も、椿小夜は一人で静かに本を閉じ、水を一口含む。人気が去ったんじゃない。人気はある。けれど、その熱が彼女の半歩手前で立ちすくむようになったのだ。理由は、誰も言わない。ただ、教室の空気が「言わない」を選んでいる。「なんか急に椿さんの周りに人がいなくなったけど、どうしたんだ? 蓮花は何か知ってるか?」 朝の小テストが終わって、鉛筆をくるくる回しながら俺は訊いた。蓮花は消しゴムのカスをまとめ、少しだけ視線を泳がせる。「えっ? うーん……ちょっと、わかんないかな……」 蓮花にしては歯切れの悪い返答だ。いつもなら「はいはい、文化祭の時の“盛り上がりだけで近づいてくる勢”は三週間で自然淘汰されるの」みたいに軽口で流すはずなのに。妙に慎重な間。 そのことも気になったが、せっかく近づくチャンスだと、俺の足は勝手に「前へ」を選んでいた。「椿さん。次の移動授業、俺らと一緒に行きませんか?」 チャイムが鳴る直前、思い切って声をかける。理科棟への移動。いつもなら彼女は一人で席を立つ時間だ。いきなり話しかけられたからか、小夜は一瞬だけ不思議そうに目を丸くした。けれど、次の瞬間には、いつものように柔らかく笑って、頷いてくれた。「いいですよ。よろしくお願いします!」 その笑顔は、教壇での挨拶でも、廊下の遠目でも見ている。でも、こうして至近距離で受け止めると、胸の真ん中温度の急上昇が起きる。頬が、耳が、熱い。――落ち着け俺。落ち着け、落ち着け。「よっしゃ、四人で行こうぜ。エスコートは俺が請け負う!」 すかさず甚太が乗ってきた。こういう時の機動力はさすがだ。蓮花はふぅ、と息を吐いて肩をすくめる。「はいはい。じゃ、あたしは“後ろから見張る係”ね。鉄、変なこと言ったら足引っかけるから」「厳重すぎないか、その警備」「必要なセキュリティーよ」 先生の「移動授業だぞー、忘れもんないかー」といういつもの声を背に、俺たちは一斉に席を立つ。四人で廊下へ。教室のドアが開くと、風が入り込んでプリントの端がめくれた。海からの匂い。白銀海聖学院の建物は海に向
その夜、浜辺には誰もいなかった。 潮騒と、静かに寄せては返す波音だけが、月明かりに照らされる砂浜を支配している。 俺はそこに立ち、夜空に浮かぶ満月を見上げていた。 真珠のように白く、冷たく、けれど凛とした輝きを放つ月。その光は海面に映り込み、揺れるたびに形を変え、まるで手を伸ばせば掴めそうに思えるほど近くに見えた。「……きれいだな」 小さく呟いた声は、夜風にさらわれて消えていく。 急に胸が締めつれられるように苦しくなる。何かは分からないけど、大切なものが無くってしまうような。そんな、胸にぽっかりと穴が空いた気持ちになった。 どうしてか分からない。俺はただ、月を見ているだけなのに――頬を伝う涙に気づいた。 何に泣いているのか、自分でも分からなかった。 ただ、この光に触れたとき、心の奥で誰かを待っているような、取り戻せないものを探しているような、そんな感覚に押し流されていた。 この涙は、これから始まる長いようで短い青春の一幕を予感していたのかもしれない。 やがて俺は、袖で涙を拭いながら振り返り、月を背に歩き出した。これから始まる物語は、俺にとって忘れられない――いや、忘れちゃいけない出来事だということを、この時はまだ知らなかった。
「今日は一段と眠そうだな、鉄」「どうせ夜遅くまでゲームしてたんでしょ」 朝の教室。賑やかな声に肩を叩かれ、俺は顔を上げた。 声の主は、幼馴染の戌亥 甚太と柊 蓮花。小さいころからずっと一緒にいて、高校に入っても相変わらずの付き合いだ。 ちなみに俺の名前は虎牙 鉄弥。白銀海聖学院の二年生。海沿いに建つ中高一貫の進学校で、制服からはどこか上品さが漂っている……らしい。少なくとも俺はそう思ったことはないが。「そんなんじゃねーよ。ただ、昨日は月がきれいだったから」「ああ、満月だったな。……お前、また浜辺でぼーっとしてたのか?」甚太が呆れ混じりに笑う。「ほんと好きねぇ、ロマンチストっていうか。今度ポエムでも書いて読み上げなさいよ!」蓮花はくすっと笑って俺をからかう。「そんなの書けるかっての!」 俺が抗議する声をかき消すように、チャイムが鳴った。すでにホームルームの時間だというのに、担任はまだ来ない。「なんでも今日来る転校生が遅れてるみたいだぞ」甚太が小声で教えてくれる。 なるほど、それでみんな騒いでいたのか。耳を澄ませば、クラスのあちこちで「男かな?」「女かな?」「可愛い?」「カッコイイ?」と盛り上がっている。まったく、高校生にもなって転校生でこんなに浮かれるとは……。 ……いや、可愛い女の子だったら俺も浮かれる。できれば、アイドル級に可愛い子が来てほしい。「鉄、お前はどっちだと思う?」「もちろん女の子だな。可愛いならなお良し!」「はは、即答かよ!」「まったく……。目の前にこんなに可愛い女の子がいるのに」蓮花が拗ねたように唇を尖らせる。「いやお前はもう見慣れてるし」「だな」「二人揃ってハモるなーっ!」 俺たちの笑い声に混じって、教室のドアがガラリと開いた。担任が入ってきて、教壇に立つ。「はいはい、席につけー。今日から転校生が来るぞ。みんな仲良くしてやれよ。……じゃあ、入ってきてくれ」 次の瞬間、教室の空気が凍りついた。 月の光を閉じ込めたような黒髪が背中まで流れる絹のような艶めいて、透き通る白い肌に、わずかに陰を宿した大きな瞳。 ――完璧な美貌の少女が、そこに立っていた。「椿 小夜と申します。家の事情でこちらに転入することになりました。……どうぞ、